Inter-Conscious-Net
- Miyuki Kubara
- 2016年7月16日
- 読了時間: 2分

つい先日、第二次大戦下シナ戦線の大冒険を、青春を振り返るかのごとく目を輝かせて語る99歳のおじいちゃんの話を聞きながら、もう二度と、そのロマンを純粋に味わえる世代は生まれないのだろうなあ・・・などと改めて感じていた。
10年ほど前、凍てつくスコットランドはファイフ地方。クリスマスのうだうだした空気を、田舎のダイナーでわたしたちグループは過ごしていた。はなしの中でひとりの地元の青年がふと尋ねる。
‘結局、インターネットでぼくたちが得た最大のものって何だったと思う?利便さとか知識の多様性とかいろいろあるけどさ・・・’
‘それはやっぱり・・・common・sense (共有意識)?? ’
彼が私にその問いをふること自体がおかしかった。この私にとっては最果てにある田舎の彼らと、彼らにとっては最果てから来た私が、特に違和感もなくどこかに同一の感覚を共有して並んでいる。これこそ答えだったからだ。私たちはなんとなく笑った。
途上国ですらネットの普及なんて当たり前になってしまった今、ちまたを歩く若者は自らの神経系にすらネットをリンクさせつつあるようにみる。
より大きなつながりを求める人間の切望がネットという表現を介して、ひとつの人間の意識へ集約されるちからを促す。そこでは‘個’はより透過され、個人としての生命維持はより大きなものへ消されゆこうとするかのごとくだ。ひとつ身に危機感と希望を同時に孕みつつ年月ごとそれは加速度を増す。
もうかつてのような大スターは生まれない。個人的悲劇も喜劇も共有され薄まってゆく。戦争という概念のない人間が増えてゆく。
そうやって個人は、個として全である人間の完成へ向かうのか、、、
はてまたシステムに個を消滅させゆくちからに沿うのか、意識下のせめぎ合いは今朝のニュース一覧をざっと眺めても未だ火花散らし、ほんとうの戦いはわたしたちのなかで起こっている。
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